社会
未来を託す
「今の日本の子どもは。。。」
この後に続く言葉。皆さんはどのような言葉を綴るでしょうか。
「夢がない」「希望がない」
そんな否定的な言葉が真っ先に思いついてしまう、というのが実情ではないでしょうか。実際、私もそう考えてしまいがちです。しかし、当然のことながら当の子どもたちには何の罪もありません。
随分前のテレビ番組ですが、アマゾンでの石油開発に伴う貧困格差のことを放映していました。石油の採掘を受け入れた村と拒否した村。受け入れた村は雇用が生まれ電気も電化製品も揃った現代的な家に住み、拒否した村は昔ながらの生活様式のまま。とは言っても、拒否した村は近隣の村と格差が生まれたことで、村の中でも軋轢が生じ、ディレンマに陥っているとのこと。
その貧しい村がなけなしのお金を何に使っているかと言うと、教育。村長さんがこうおっしゃっていました。「私たちには教育が足りない。生き残る為には教育が必要だ。子どもたちに未来を託す」と。それを受けた子どもたちも、医者やエンジニアになって村を助けたいと目を輝かす。大人たちが子どもを頼りにする社会。そして頼られた子どもたちが頼もしく育つ社会。
高度経済成長を突き進んで来た日本。それが成熟し停滞してきた今日、ふと振り返ってみると、大人たちは子どもたちに未来を託してきたのだろうか、と。充実した教育施設や教育制度を作り上げてきたのも事実なら、未来に借金を作りながら公共事業を繰り返してきたのも事実。「おらが世代が日本を作ったる」みたいな自意識が強すぎた気がしないでも。。
子どもたちに希望や未来がないのではなく、大人が子どもたちにそれらを託していないのではないでしょうか。
Don’t Think Pink
「今度の新製品は女性がターゲットだ。パッケージはピンク基調の花柄でいこう!」
今どきそんな企画開発者がいたら驚きですけれども。しかし、ここまで極端でなくても似たような発想は多々あるのではないでしょうか。逆に「こんな商品は女性がターゲットになるはずがない」なんて発想をもったり。
男である私としても、特に女性向けの商品をWebで展開したり、女性向けのWebサイトを作ったり、女性向けのイベントのブログを運営したりするのは、はっきり言って苦手です。。
「女性に選ばれるマーケティングの法則」(ダイヤモンド社/リサ・ジョンソン、アンドレア・ラーニド著)はそんな悩める男性のマーケティング担当に新しい視点を与えてくれます。アメリカでの事例が多いので、日本に状況を置き換えたときに少し違和感を感じますが、でもまあ、日本に先行した事例かもと思えば興味深く読めます。
例えば、DIYのホームセンター。男性が行くものという固定観念はないでしょうか。地元のDIYセンターを眺めてみると、顧客層として女性の方が多かったりします。そうなると、どういう商品が女性に売れるか、という課題は女性の特性や生活習慣、思考を考えると明らかになります。電動ドライバーを例にすると、男性の考え方ではいろんな分野に応用できる多機能な製品をほしがりますが、女性は軽くてコードレスを望むでしょう。
この本のサブタイトル「『あからさま』から『さりげなく』へ」は、これからのマーケティングの基本になるかと思います。「ああ、この商品はこういうことを狙ってるんだな」なんて一般消費者に用心させようものなら、そのマーケティングは失敗と言えるかもしれません(結果、売れれば成功ですが)。
マーケティングに限らず、私たちは女性に対してあらゆる固定観念を持っている気がします。もしかしたら女性自身が自らの可能性を否定し限定している場合もあるかもしれません。「男性は外、女性は家」「男性は生産、女性は消費」など、一時期は強く否定されていた観念も、なぜか最近また頭をもたげてきた感があります。
自立した女性はもちろん、奥さんやお母さんとしての女性が、社会に対してある「価値」を生産していくということはこの閉塞した社会のひとつの突破口になるのではないでしょうか。
世界を変える
3年前、私の世界に対する考え方を変えた本があります。
「世界を変えるお金の使い方」山本良一、Think the Earth Project 著(ダイヤモンド社)
100円からできる世界を変える方法が掲載されています。
お金と聞くと、いろんな人がいろんな考えを抱くものでしょう。「唯一絶対のものだ!」という人もいれば、「世界を陥れる汚れたものだ!」と嘆く人もいるでしょう。
けれど本書は、お金に対する、中立で理想的な見解を与えてくれました。同時に、世界にはなすべきことが山と積まれているということも。世界は決して平和ではなく、不均衡の上に今の日本の豊かさがあるということも。
例えば、世界の軍事費の4日分は1兆2000億円。それだけのお金があれば、世界中の子どもたちが1年間の初等教育を受けられるのだそうです。また、100円分のワクチンで、ミャンマーの5人の子どもを感染症から守ることもできます。
現代の先進諸国では、「お金を得る」「お金を払う」という行為のごく一面しか見えにくくなっているのではないでしょうか。私もそんな一人でした。それは、誰かを蹴落としてまで儲けたり、加速する欲望のままに消費したり、また、心身の健康を脅威にさらしてまで働く、そんなことだったりします。
誰かの為に働き、誰かの為にお金を使う。そんなシンプルな考え方も、本来のお金のあり方なのではないでしょうか。お金だけでなく「ありがとう」という言葉だっていいと思います。世界的でなく、小さな地域の中でだっていいと思います。誰かが喜ぶ顔こそが、社会に接して行く目標だと私は思っています。もし、世界の現状が笑顔に溢れていないのであれば、それは世界を変えることだと思います。きれいごとでしょうか(笑)。
いま、Googleが「世界を変える」アイデアを募集しているのだそうです。世界のできるだけ多くの人の役に立ち,生活を向上させるアイデアの上位20に資金を提供するとのこと。皆さんもこれを機に「世界を変える」ことを想像してみて応募してみては。私は、英語ができないので。。。(泣。
生活者としての教育
食品偽装の問題が次々と表面化しています。これは商品を提供する業者側のモラルの問題だということに間違いはありません。ただ、彼らをそこまで追い込んだ「何か」があることもまた事実なのではないでしょうか。その「何か」は私にははっきりとわかりません。
ただ、回り回って影響しているように感じるのは、私たち消費者・生活者が賢く振る舞っているか、という問いかけがあるように思えます。自戒を込めて言うと、高い・安いという価値判断だけでなく、広く鋭い目をもって商品を選んでいるでしょうか。
生活者としての賢さがなければ、その隙に付け込んで業者が悪意をもってしまったり、また善良な業者であっても原料の質を下げてしまうか生産をストップするかの選択を迫られたりする状況になる場合があります。
地産地消や地域ブランドなどは確かに素晴らしい考え方です。しかしながら、昨今はそれがブームのように急激に盛り上がりすぎて、消費者としての知識やスキルのないまま、食品偽装の被害者になっているような気がするのです。その商品がどのようなプロセスで今売り場にあるのか、地域ブランド品としての確証はあるのかなど、それを消費者として知る術を学ぶべきであるとともに、社会的にもそういう基盤が成熟する前に一気に加熱した感が否めません。
と、まあそれだけでなく、少し話を変えると、シャンプーや石けんの場合。口から摂取するよりも、皮膚から吸収する添加物のほうが危険であると言うことを私たちは学校では教えられませんでした。口から摂取する場合は内蔵・肝臓・腎臓などあらゆる場面で毒素は濾過されます。しかし、皮膚から吸収されるものはそのまま血中にとけ込み、少しずつ身体に負担をかけていくのだそうです。
また、最近流行のオール電化。CO2削減のムーブメントに乗って、エコロジーであることを売りに電力会社が広めています。オール電化は原子力発電の上ではじめて効果があるようです。その原子力発電も未来の世代に長くその廃棄物を負担させることになります。沖縄の場合で言うと、沖縄の電力供給はほとんど化石燃料で供給されているため、オール電化にしてもCO2削減の効果は少ないのではないかと思います。
ということで、テレビ見ながら書いてるので集中力がなくなってきましたw。とりあえず、そういう生活者視点の教育を日本はもっと押し進めるべきだと思うのです。
言葉を得る
いまこの空の色を表現せよ、と言われたら、その手段としてあなたは何を選ぶでしょうか。絵を描き始める人はもちろんいるでしょう。写真を撮る人もいるかと思います。こころの中に湧いて出た「思い」や「感覚」は、自分の中にだけあるのものです。それをどうアウトプットするか、どうプレゼンテーションするかは時や状況や人によってそれぞれです。
中学生の頃は歌詞を創作したりもしました。だけどその当時は、だいたいがその時に流行った歌の詩を真似たようなものばかりです。人を愛したこともないくせに「愛してる」だなんて言葉を使ってみたり。いま思えばコッパズカシくも微笑ましいw。でも数をこなすうち、自分の思っていることを素直に表現した詩もいくつか出るようになってきたような気がします。
高校や大学になると、短編小説を書くようになり、いくつか賞も頂くようになりました。その頃から、自分の思いや考えを自覚的に文章に表現できるようになったように思えます。また、自分の気持ちにフィットするような、腑に落ちるような文章を書けたときに、ある種の快感を覚えるようになりました。
社会人になると、計画書や企画書など、論理的な文書を書くことが多くなりましたが、それまでの文章を書いて来た積み重ねはとても役に立っているように思えます。「それっぽく見える」ような浮ついた文章ではなく、「本当のところ」を文書としてまとめるよう心がけています。
つい最近のNHK「クローズアップ現代」で、「コピペ」の問題が取り上げられていました。大学生や官公庁でのレポートに、インターネット上の文章をそのままコピーしているものが多くなっているということでした。
解説の茂木健一郎さんもおっしゃっていましたが、特に大学生にとっては大変「もったいないこと」だと思えます。自分が思考し、絞り出すように考えを言葉に移していくという作業は、大変ですがこれを訓練しないと「自分の言葉」は得られないように思えます。
現代は言ってみれば「文書社会」です。文書で考えを共有し、決済します。もし官公庁の中に、自分の思いや物事の本質が見えないまま、借り物の言葉を使って国を動かしているようなことがあれば、とても危険なことなのではないかと思います。
でもまあ、そうでなくても、こうしてブログを書いたり、企画書をクライアントに提案する際に、自分の言葉で相手にうまく伝わった時はうれしいものです。いろんな場面で不自由を感じなくて済むように思えます。ただ、私の場合、その場でリアルタイムに声にして応対するのは苦手。日々精進っす。
ニュース
福田首相が辞意を表明しました。それを受けて、メディアは速報を出し続けます。新聞は号外を、テレビは臨時ニュースを。Webのニュースサイトでも速報が打ち出され、ネット上では退陣に関する議論が一気に盛り上がっていました。
ここ数年、ニュースサイト等でよく見られる形態が、そのニュースに関して一般の閲覧者コメントや日記をつけられるというものです。
私の場合、mixiのニュースコーナーをよく見ます。例えば、今回のような首相退陣のニュースについて、mixi参加者が日記を書くことができます。そのニュースを見た人は、投稿された日記を見て他の人がこのニュースに関してどのような関心をもっているかを知ることができます。
今回の福田首相退陣のニュースに対して投稿された日記は12000件を超えていました。私の見ている限り、通常ニュース1件あたりどんなに多くても500件以下です。それだけ、皆さん政治に対して「いいたいこと」が多いという証拠なのでしょう。
もちろん、日記にはいろいろな人のいろいろな意見があります。いろいろな意見を自由に述べられるという環境は健全だと言えます。ただ、なんとなく、多くの日記は「客観的すぎる」ような気がします。主体性がない、とでも言うのでしょうか。。文句は言うけど本気で怒っている人は少ないというか。
福田首相のコメントは他人事に聞こえるという意見をよく耳にします。今回の退陣は無責任だとも。しかし、今回のニュースに対するいろんな人の日記を見ていると、私も含めた国民全体が政治に対して他人事だったり無責任だったりするような印象を受けるのです。
福田首相が就任した当初、高い支持率を示していました。私たち国民は彼が何をしたい人か、何をしようとしている人か、理解した上で支持をしたでしょうか。「福田さんがなにをしたいのか伝わってこなかった」というコメントを今さら言うのは、少し無責任な気がします。
客観的で評論的なコメントは評論家に任せておきませんかw? まず私たちがどうしたいのか、主体的に声を上げていくべきだと思います。ブログでも日記でも。国の主権者は国民です。リーダー選択の機会がないのであれば、解散の声を上げるとか。野党の皆さんくらいに国民が騒いだほうがいいっす。
と、あまり政治的な話を熱く語ると、いろいろと問題が起きてきそうな気がするのでこれくらいで。Webがもし人々の主体性を失わせる一因となっているのでしたら少し悲しい事実です。Webはもっと個人の主体性を発揮出来るメディアだと思います。それと、一度決めたら最後までみんなで支えていけるようなリーダー(首相)を選べたらいいですね(ってこういう言い草も他人事?)。
っぽさ
以前に「らしさ」という記事を書きました。ふと、「らしさ」の反対は「っぽさ」だな、と思い当たったのです。
例えば、オシャレをして友人と会ったとき、その友人から「その服、〜っぽいね」と言われるのと、「あなたらしいね」と言われるのとでは、どちらがうれしいでしょうか。この場合は人それぞれだと思います。
けれど「ものづくり」をしてらっしゃる方の多くは自分の作品に対して「あなたらしいね」と言われる方がうれしがるかも知れません。自分の作品を作っている人にとっては、オリジナリティという言葉が常に頭の中にあるのだと思います。おそらく、誰かの真似をしていると見られるだけで屈辱なのかもしれません。
しかしながら、今の世の中、本当の意味でのオリジナルを作り出す、というのはとても難しいことのように思えます。むしろ、現代に生み出されるものはすべて過去に生み出されたもののRemixだ、と言い切ったほうが、すべてのつじつまが合うような気さえしますし、なにより楽な気がします。本当の意味でのクリエイト(創造)よりも、エディット(編集)のほうがより現代的なやり方である気もします。
もちろん、何かの真似をしたり、Remixだったり、編集だったり、という制作の技法や過程を否定はできません。それらはあってしかるべき手法です。私もWebサイトをつくる時は、同業種などの他サイトをベンチマークにして新しいサイトを構築していきます。そこはもうわりきってますw。
だけど忘れてならないのは、今自分が作り出すものの本質、またはクライアントの本質をしっかり観察し、「らしさ」を理解してものづくりにあたるということ、だと思います。そうすれば、技法や過程はなにかの真似でも、アウトプットは「っぽい」を超えて「らしい」ものになるのではないかと思うのです。
さて、世の中、あたりを見渡せばどこかで見たことがあるような「っぽい」ものが溢れています。それに流されて自分自身もなにか「っぽい」ものでいいや、そんなあきらめに飲み込まれてしまいそうにもなります。だけどせめて「人」だけは。「あなた」だけは。「わたし」だけは。人らしさ、あなたらしさ、わたしらしさとは何かを常に心に問いかけながら生きていきたいと思うのでした。
方言と、母親の話し方。
沖縄を離れ、5年とちょっと本土で生活したあと沖縄に戻って来て以来、少し気になることがあります。沖縄の人の、とりわけ女性の「話し方」です。
沖縄にはウチナーグチと言われる沖縄方言が存在します。言葉はもちろん、訛(なまり)も特有なものがあります。オジィやオバァの話す純粋なウチナーグチは、とても美しく感じますし、聞いていてほっとします。何を言っているかわからないですけどね。
今の若い人(と言っても、オジィやオバァと比べて)は、純粋なウチナーグチを喋れる人はそう多くはいません。多くは、80年代に沖縄文化を見直す若い世代の潮流からはじまったウチナーヤマトグチ(またはヤマトウチナーグチ)と呼ばれる喋り方です。その内容はというと、一部の単語だけが方言で、あとのほとんどは標準語だったりします。その特有の訛も含めて、古くからの方言とはまた別の方言として息づいているように思います。
私が沖縄に帰って来てからの「違和感」は、ただ標準語に耳がなれてしまっただけなのだろうと思っていました。けど、最近、それだけの理由ではない様な気がしています。
ウチナーヤマトグチを否定する気はありません。少しでも、地元の言葉や訛に親しむという意味で、とても大切な潮流だと思います。私の違和感は、細かく見ていくとそれ以外の部分。とりわけ、若いお母さんの子どもに対する喋り方なんです。
「えー! お前よ! ○○すんな! さっさと歩け!」
たぶん、方言とかいう問題ではなくて、ただ乱暴なんだと思います。母親らしさだとか、女性らしさが言葉に伴っていないと思うのです。もしこういう喋り方を、「沖縄の喋り方」などと思っているのであれば、それは大きな過ちだと思います。
子どもには親が授けた名前があるはずです。「お前」と呼ぶのはあまりにもその子の存在を乱暴に扱っている気がします。そして、母親が子どもに話しかける語尾は「〜ね」が基本だと思うのです(私の思い込み?!)。子どもは親の部下ではなく、命令される存在ではないと思います。
かくいう私は、子どもがいませんので、そんな偉そうなことは言えませんが、少なくとも元・子どもの立場から言わせて頂くと、方言であれ標準語であれ、親は親の品格を持って正しく優しい言葉で育てて欲しいと思うのです。
「方言は大切だ。慣れ親しみ、守っていかなければならない」
それはもちろんそうです。しかし、その大義名分を隠れ蓑にして、「正しい言葉」を使う努力を怠ってはいけない、そう思います。
沖縄州
今日、琉球新報ホールにて、「道州制に関するシンポジウム」を観てきました。
日本では、国民が無関心の間に、国に関する重要事項が決定されてしまうことがままあります。「道州制」に関しても、現状、そんな感じが否めません。
道州制とは、現在の都道府県を廃し、複数の都道府県を州として、権限・財源・人間を国から州へ、また都道府県から基礎自治体である市町村へ移譲するというもの。
今回のシンポジウムの内容は、自民党の道州制推進本部のメンバーである西銘恒三郎議員(南城市知念出身!)からの自民党からの第3次中間報告書について、沖縄道州制懇話会の座長である仲地博教授から当該懇話会からの第1次提言について報告がなされたあと、沖縄21世紀ビジョン懇話会の宮﨑政久氏を交えてパネルディスカッション、という内容でした。
沖縄での道州制に関する議論は、他府県に比較して県民の関心は高い方なのだそうです。なぜかというと、もし道州制が導入された場合、沖縄を単独州とするか九州と一緒になるかで大きく沖縄の未来が変わるからなのです。
沖縄はいろんな意味で他府県とは特異な点があります。そんな中で、私自身も沖縄が九州の一部と言われても、ものすごく違和感を感じるのも事実です。かといって、この小さな沖縄が単独州となってやっていけるのかとなると、ものすごく大きな不安もあります。
- 国からの地方交付税や各種助成金・補助金がなくなる可能性が大きい。
- 第3次まできている沖縄振興計画が、第4次まであるかは不透明。
以上の結果、そもそも財政的に回せないのであれば、単独州もなにもないと思うのです。なにより悩ましいのが基地の存在。基地という負担を、国や他州とどのような関係性の上でどのように解決するか。今までの「国からの恩情」的な発想ではいけない、というのがパネリストの総意だったような気がします。
意外と、「東京と組む」という意見も、なきにしもあらずかな、と思いました。東京も沖縄と同じ単独州の案があります。その異質な2つの地域が組むと、いろいろと面白そうなことはできそうな気がしますが、でも不安のほうが大きいかな。。
で、そもそもなんで私が道州制に興味を持っているのかというと、道州制は国と都道府県の関係だけでなく、市町村のありかたも大きく変わってくるからです。県の職務の一部を市町村が担うことになります。南城市という地域をフィールドに活動している私にとっても大きな関心事にならざるを得ません。南城市がさらに吸収または合併されるかもしれません。
そんな中、ふと思ったのは、もし沖縄が九州の一部となって「沖縄」という全体の個性が薄まっても、その個性を構成してきた市町村が今度は個性を発揮すれば、それでいいのではないだろうか、という割り切った考え。
ともあれ、個人的にはもうこういうことになったら単独州で行ってしまえ! という感じではあります。まずはとことん、沖縄人としての知恵と勇気でやってみるのも良いのではないでしょうか。だめだったらだめだったで諦めもつく。っていう投げやりな考えはだめですかね? 少なくとも、いろんな覚悟が必要だなってことが分かったことだけでも、今回のシンポジウムは有意義だったのだと思います。
経済と幸福
とある架空の国の、失業者たちの会話。
「おれたちの社会では誰も経験したことがないが、夏になると蚊というものが出てくる国が南のほうにあるそうだ。その蚊なるものを採りにいってこよう。そうして養殖し、国中にひろげる。そうすれば必ずわが国民は、蚊取り線香が欲しい、蚊帳が欲しい、というに違いない。そこで、おれたちのうち半分は、どこか蚊のいる国から蚊を輸入するために、その国に出張して、蚊を籠かなにかに入れて持ち帰る。あとの半分は、蚊取線香や蚊帳を作ることに携わる。これは必ず成り立つ商売に違いない。どうだ、やろうじゃないか」
- 都留重人「二一世紀・日本への期待」(岩波書店)
果たしてこの国から失業者は減り、GDPは増加しました。しかしながら、国民の幸福度は高まったでしょうか。ある一方の見方では幸福になったと言う人もいるかもしれません。でも、多くの人が蚊という気を苛まれる存在が現れ、今まで不要だった蚊取線香などを購入する負担が増えたという点で、私個人の意見としては、幸福度は低下したような気がします。経済成長がそのまま幸福につながるのではない、ということをよく表現した寓話だと想います。
この話を読んで、いろんなことを連想しました。道路の公共事業、地上デジタルテレビ、CO2排出量取引、米軍基地の存在、、、。もしかしたら、私が携わっているWeb制作の世界だって当てはまるのかもしれません。はい、あえてここでは保身的意見は言わないことにします。。
「問題解決」という正道的な言葉の裏には、実はたいした問題でないことを過剰に問題視し、はたまた必要のなかった問題を作り出し、ソリューションビジネスとして創出する、という危ういロジックが存在したりします。そして、たちの悪いことに、「問題」の後の「解決」はその「手段」によって新たな問題を生み出すことが往々にしてあります。
経済が成熟して来た日本でさらなる経済成長を問題解決の手段としようとすること、その経済成長が決して環境に良い影響を与える訳ではないことが分かっているのに後を追う途上国。
なにをどうすれば正しいのかは、誰も分からないかもしれませんし、誰もが分かっているのに知らないふりをしているのかもしれません。この時代における本当の豊かさとはなにか、働くこととはなにかを、常に自問自答しながら少しずつ歩んで行こうと思います。