社会
祈り
まずは東日本大震災の被害に遭われた方々に、深くお見舞い申し上げます。
あれから1週間が経とうとしています。もう1年分のニュースを聞いた気がします。被災地から遠くはなれた沖縄でさえ、刻々と伝えられるニュースを見聞きするたびに胸が詰まる思いでいっぱいなのに、現地の方々の不安はいかばかりかとお察しします。
何ができるかも分からず、日々の締切に追われる毎日ですが、ただただ、募金箱を見るたびに千円札を入れている僕です。
昨日、南城市で地域おこしをしているHさん[blog]から電話がありました。
「南城市としてなにかできることはないかね〜。暖かい南城市にきてもらって、廃業したホテルの空き部屋とか、公共施設の空き部屋とかを、被災者に使ってもらうとかさ」
アイデア自体はいろいろクリアすべき壁があるにしても、僕も地域おこしに片足を突っ込んでいるから気持ちは分かるのですが、そういう方は地元の発展だけでなく、他の地域の心配もしてしまいます。そういう仲間が南城市にいることに、心強く思いました。
南城市内のイベントも、震災による影響でいくつか延期や中止が発表されています。
ただ僕個人としては、むしろ日本全体の活力を低下させないためにもあえて実施すべきではないかと思うのです。それが被災していない地域の役割ではないでしょうか。
さらに付け加えるのであれば、今後日本で開催されるイベントをすべてチャリティー化すべきとも思います。余計なお金をかけず、収益を被災地援助にあてる。日本全国で被災地を支えなければならない。
今回の震災で日本人が変わろうとしている兆しを感じます。ぜひ日本人らしい良さを意識的に取り戻し、日本人らしいやりかたで復興していけるよう、祈りますし、僕自身もその実現に関わっていけたらと思います。
ツッコミ。
テレビやWeb上での人々のコメントを見ていると、ほとんどが「ツッコミ」です。
評論家、コメンテーター、ニュースに対する書き込み、、、。
実態を鋭く突くツッコミもあれば、ただ面白がるためや自らの知識を披露するために事実を歪曲したツッコミなど様々。
もちろん僕だって人からバカだと思われたくない。そういう気持ちの裏返しで人々はツッコむのかもしれません。
しかし、ふと広い視野で世の中を見たとき、結局得をしているのはツッコまれた側だということに気づきます。特にソーシャルメディアが発達したWebの世界では、いわゆる「口コミ」で話題が広がり、それが広告効果につながっているのです。もちろん、悪事へのツッコミはその分まったく逆ですが。
ツッコんでも得にはならない。むしろ人からツッコまれる側になろう。それがこれからの時代、本当の意味で賢い生き方かもしれません。
お笑いコンビでもそうでしょう? ボケ役のほうが頭よかったりする。
疲れない社会
あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いいたします。
2010年となりました。ここ数日、テレビでは日本のこれまでとこれからを議論する番組がいくつか放送されていて、全体的に「だれが悪い」とかそういう話ばっかりですが(笑)、いろんな人たちの考え方を伺えると言うのは勉強になります。
どの番組でも話題に上っていたのが「若者」について。
留学したい人がいない
内向き
疲れている
下を向いている
起業精神がない
と、若者を交えずにおじさん・おばさんが言いたい放題でしたが、なんとなく間違っちゃあいないと感じる私も、もうおじさんでしょうか。でもまあ「今どきの若者」論はいつの時代でもあるもののような気はするっす。
若者が「疲れている」原因はいくつかあるのだと思いますが、僕なりに言うと「疲れたら休む」ことが大事だと思っていて。本当は疲れないように工夫して生きていくことが大切なのだけれども、実際疲れてるんだから仕方ない。元気の3原則は運動・栄養・休息です。
「そんな甘いことを言っていたら国力が低下し経済が低迷するではないか!」
そんな意見もごもっとも。ただ、本当に疲れている人は休んでもらうしかないっす。休んで活力が戻ってくるその時にどうフォローするかが大切。それまで元気な人が働く。それが持続可能な共生の社会ってもんだと思うんです。疲れた人の「休み方」だって十分市場になりうるし。
成長より持続。今はそんな時代ではないでしょうか。政府が発表する「成長戦略」も「持続可能戦略」って名前にでもすればいいのに。
南城市も年中いろんなイベントがあってにぎやかですが、市の職員の皆さんも大変です。お疲れさまです。そこで提案ですが、「南城市なにもしない旬間」を発表してはどうでしょうか。2週間くらいみんなで何もしない期間。南城市らしくて、その上話題性があると思うのですが。
では本年も疲れない程度に頑張っていきたいと思います。
続くことのニュース
続けていることはニュースになりにくい。
現在の報道は「何かが始まった」「何かが終わった」「何かが変わった」といったニュースがほとんどです。「今年もまた」というニュースは、よほどブランド価値の高いものか、毎回センセーショナルな話題性を商業ベースで組み込んだもの、と言っていいでしょう。
地域の伝統行事は毎年同じような時期に同じようなことを繰り返します。一般的に考えると、上記のような目新しいニュース性はほとんどありません。
しかしながら思うのです。変わらず続けていることにこそ、本来の尊い価値があるのではないかと。それを伝え続けるべきではないかと。
先日、南城市大里稲嶺区の獅子舞を取材してきました。稲嶺の獅子舞を見るのは4回目ですが、その迫力と動作の緻密さに、見るたびに感動するのです。新しい発見があるのです。
伝統には奥深さと、長い歴史に磨かれてきた強度があります。それゆえ、触れるたびに新しい発見があるのだと思います。
そのことを社会に伝え、まだ見たことのない人がその伝統に触れたときに、個人の中に新しい小さなニュースがうまれると思うのです。社会的には決してセンセーショナルでなくても。
神の島と言われる久高島の神女が途絶えた、という「ニュース」が報道されました。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-149894-storytopic-5.html
慎ましく繰り返される地域の伝統や日常が「終わった」というニュースにならないよう、続いていることのニュースを伝え続けて行けたらと思っています。
アパシーからシンパシーへ
今読んでいる本で「アパシー」という言葉を初めて知りました。冷淡、無関心、無感動、無気力、しらけ等の意味があるようです。
本書「コミュニティ・カフェと市民育ち」(萌文社)では、現在の地域コミュニティの諸問題は、市民の地域に対する無関心、「アパシー問題」がもたらしていると説明しています。
「面倒くさい」「そんなことに構っていられる時間はない」「だれかがなんとかしてくれるだろう」「そういうのは行政がやるべきだ」
地域に横たわる問題に対して、誰もが一度は感じたことのある言葉ではないでしょうか。
思えば、国と地方が抱える膨大な借金は、この一人ひとりの小さな「アパシー」の積み重ねであったとも言えるかもしれません(もちろん、ごく一部の既得権益層によるものもあるかもしれません)。
例えば福祉に関して。
かつては隣近所がお互いを気にし合い、気遣い合って、子どもを預かったり、お年寄りの世話をしたりという、コミュニティの力が存在したのだそうで。今でもお葬式のときは地域の青年会等が様々な役回りを買って出たりする地域もあるようですが、放っておけばそれもいつまで続くか、という状況です。
今では地域コミュニティの崩壊を補うかのように、子育てや介護の分野を事業者が、その多くは行政の補助を受けて担っています。つまりお金が必要になってきたということです。
そこへ来て、聖域なき構造改革の名の下に福祉への予算が削られたと。
あれだけの借金を抱えていたのでは、予算の規模縮小は仕方ないことだとは思いますが、政府は手順をひとつ飛ばしてしまったのではないかと私は思います。まずは地域コミュニティを再生させるべきだったのではないかと。
「困った時はお互いさま」といった感覚を市民が取り戻し、お金に頼らずに、地域の福祉を市民自らの力で支えていける状態にすることが先決だったのではないかと思うのです。
そういったことをふまえて(だと思いますが)、南城市では地域福祉計画なるものの策定を目指して市民ワークショップを開いています(詳しくはこちら)。
ともあれ、アパシーからシンパシー(同情、共感、共鳴、賛成)へ、市民の意識を変えて行くことが大切です。行政は予算の問題と同時に、地域社会の仕組みや根深い内面的な問題もあわせて議論すべきだと思います。
問題意識、危機管理、と、おおらかさ、しなやかさ。
繰り返されるニュース速報、得体知れぬ故に煽られる不安。
ここ数日、新型インフルエンザの話題がメディアで持ち切りですが、北朝鮮のミサイル(人口衛星?)発射問題のときの既視感を感じてしまうのは私だけでしょうか。
あのときもそして今回も、国民が、というよりマスメディアと政府がヒステリックなまでに危機感を煽っていたように思えます。
もちろん、ミサイルもインフルエンザも怖いです。そのためにも、国としての対応はしっかりとしてもらわなければ困ります。ただ、その情報提供の仕方・程度に疑問を感じるのです。ひとり患者が発生するごとにニュース速報を流したり、時には不確定な情報まで流して、ミサイル問題のときは誤報までしてしまいました。
みんなで共有できる危機を持つことで、国としてのまとまりを保とうとしてる?? なんて余計な勘ぐりさえしてしまいます。
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時に人は、賢く生きようとするあまりに過剰な問題意識や危機意識を持つ場合がある、と思います。私個人としては、特に今の日本人にそんな傾向が強く感じられます。
大人達の話し合いは、みんな「ここが問題だ」「だれの責任だ」「甘い考えはタブーだ」という話ばかり。必要な議論だとは分かってはいるのですが、ちょっと辟易してるのも正直なところです。
今の世界に足りないもの、それは「おおらかさ」なのではないでしょうか。無駄口を言わず、怒声をあげず、素直に微笑み、臆せず抱き合う、そんな落ち着いた、懐の深い精神。問題に対しては、慌てず、責めず、冷静に裁き、失敗を静かに認め改める、そんな「しなやかさ」も必要だと思います。
と、言いつつも、誰だってそう願っていながらそうできないっていうのもあるんでしょうね。。。自分も含めて。
非電化製品
電気について話をしましょう。
電気は私たちの生活を便利にしました。そんな話はもうみんな分かっていて、今さら僕がここで語ったってつまらないことです。では、電気があることで私たちの生活からなくなったものはなんでしょう。
藤村靖之・著「愉しい非電化」(洋泉社)は、電気は私たちから「愉しみ」や「生活の豊かさ」を奪った(奪ったは言い過ぎかも)、そんなことを教えてくれます。
例えば、「非電化除湿器」。
湿気を吸い取るろ紙が並んでいるだけのものです。何が愉快かって、湿気を吸わせたあとは、晴れた日に天日に干してまた使うっていうプロセスが愉しい。同時に、現在の電化製品の除湿器のように、過度な除湿は必要ないってことを教えてくれます。ほどほど、のんびり、湿気をとってくれるのがちょうど心地よい。
他には、「少し面倒な卓上浄水器」。
一杯のおいしいお水を飲むのに活性炭素入りの容器のピストンをせっせと上下。これもプロセスを愉しみ、実際の味以上のお水のおいしさがプラスされるのだと思います。
生活とは絶え間ないプロセスの積み重ね。結果を早急に求めるのではなく、そのプロセスを楽しむことこそ生活の豊かさを向上させるポイントなのではないでしょうか。もちろん、地球環境にとっても。
この本の第5章「非電化の意味論」は大変面白くも先見的な世の中の見方を与えてくれます。
例えば「リープ・フロッグ(跳び蛙)理論」。
先進国は「発展途上国が発展すると、地球環境がもたないから、発展しないでくれ」と思う。発展途上国は「これまで環境を悪くし、現在も悪くしすぎているのは工業国ではないか。環境を犠牲にして自分たちだけ豊かになっておいて、われわれには貧しいままでいろと言うのか」と反論する。いわゆる南北問題。
しかし、この理論から言わせると、現在の工業国の技術はエネルギー多消費型・化学物質依存型であり、環境・安全の尺度で見ると決して先進国ではない。発展途上国はそのような「環境後進国」の後追いをするのではなく、はじめから「環境先進技術」を取り入れればよい。つまり工業国よりも一気に先に進んでしまえ!=跳び蛙というわけです。
「ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)」という言葉を教えてくれたのもこの本。私の考え方を一転させてくれた本の一冊です。
夕刊という「時間」
沖縄県内の新聞社2紙が、夕刊を廃止するそうです[報道はこちら]。
何を隠そう、私は朝刊より夕刊のほうが好きだったりします。あのちょうど良い情報量や、生活・文化に関する記事やコラムがいいと思うのです。
いまやインターネットがあるからいいんじゃない? という意見が大半だとは思いますが、そういうことではないんです。
フリーランスなどという仕事、特にIT関連ですと、気がつけば1日中パソコンの前、という日も珍しくはありません。なので、僕は午後4時くらいになると近くの喫茶店で100円台の珈琲を飲みながら夕刊を読んでリフレッシュするのです。いわば、夕刊がそういったほっとする時間を提供してくれている気がするのです。
広い紙面にゆっくり目を通し、3回ページをめくれば、休憩としてちょうど良い時間。このちょっとしたスローな時間はネットでは難しいと思います。
ああ、残念。
KY
若者言葉の代表的なもので「KY」という言葉があります(とは言っても、KY語を使っている若者をあまり見たことがないです)。「空気を読めていない」人や状況に対して使う言葉です。言われていい気分のする言葉ではないということは確かです。
私も好きな言葉ではありません。私自身、その場の空気を気にしすぎる性格で、それでもなお、場の空気を壊してしまう発言をしてしまうような人間だったりします。KYという言葉が嫌いなのは多分相応の自己嫌悪が含まれているのだと思います。
ただ、どうにもこうにも、社会の中で「KYだ」と言い合う状況が、社会全体をネガティブに陥れている感があります。その場に淀んでいる「空気」ばかりに気を使い相手を牽制し合う状況というのは決して好ましくありません。
私たちはその場の「空気」を読むよりも、未来から吹いてくる「風」に気を使うべきなのでは。
強烈に吹き付け否応にも私たちを巻き込む風には果敢に対処する必要があるでしょうし、気がつかないほどの弱い風にも五感をフルに働かせてしっかりとそのメッセージをキャッチするべきだと私は思います。
先日、ジャーナリストの筑紫哲也さんがお亡くなりになりました。とかく周りの空気を気にしすぎて体制的になりやすいこの国に対し、彼は常に少数派であることを恐れてはならないことを訴えていました。そして彼自身、社会の空気に流されることなく、現実を見据えた「論」を堂々と提示してきました。
彼のように、「空気が読めてない」などという批判をさせないくらいの筋の通った力強い意見を述べられる人間になりたいものだと思うのです。が、それはまた多くの経験と知識を積まなければならないということなのでしょう。
政治と、デザイン
フランスのとある田舎町に突如、巨大なポスターが登場したそうです。そこには「YES WE CAN」と書かれ、オバマさんが鮮烈に腕を振り上げている写真が。なかなかかっこいい。その街の市長がオバマさんに感化され作ってしまったんだそう。市民であるおじいちゃんのコメント。
「ああ、あの看板ね。この街にもああいう格好のいいものは必要なんじゃないかな。ところで彼は誰だね」
誰かわからなくてもオバマさんはかっこいいってことです。正確に言えば「メディアのりが良い」。彼の精悍な顔を多くのグラフィックデザイナーがモチーフとして用いているのを良く目にします。時に白と黒だけで、時にカラフルに。
かつて世界に影響を与えた政治家の中にも、いまだによくデザインのモチーフとして使用される人たちがいます。チェ・ゲバラ、JFK、リンカーン、毛沢東、スターリン、ヒトラー、、、(順不同)。メディアのりが良いからカリスマ性が高まったのか、カリスマ性があるからメディアのりが良いのか、どっちかは分かりませんけれども。。
どっちにしろ、この大統領選で勝利すればオバマさんもそんな政治家のひとりとなるような気がします。彼はとにかくメディアやデザインの扱いに長けている。
デザインって、端的に言えば「どれだけうまく伝えるか」だと思います(もちろん一面的な意味で。デザインはもっと多面的だと思います)。そういう意味で、マケインさんとオバマさんを比べたときに、マケインさんは伝わってこないけど、オバマさんは伝わってくるのが多い。
例えばキャッチフレーズ。オバマさんは「CHANGE」ですよね。これは彼の主張や立場の特徴を良く言い得てると思うし、有権者からしても分かりやすい。一方、マケインさんのキャッチフレーズはなんでしたっけ? って感じになりません? 実は「COUNTRY FIRST」なんだそうです。意味がよく分かりません(ぼくが日本人だからなのだろうけど)。
あと、シンボル。オバマさんのは赤白のストライプの地平の先に太陽が昇ってくるシーンを円で象ったもの。あれも印象的だし、かつてのフロンティア精神を取り戻そうとする彼の主張につながるイメージが日本人の僕でもしやすい。マケインさんのは五芒星の立体型で両サイドに翼が伸びてるもの。多分、元軍人のイメージで勲章と航空機を連想させようとしてるんだろうけど、記憶には残りにくいかも。
オバマさんは選挙用Webサイトを見てもメッセージの伝え方が分かりやすい。最初のスプラッシュページに表示されるのは「ボランティアに参加してくれ」というメッセージだけです。そこを入り口に中に入って行くと、具体的なボランティア活動のマニュアルが用意されているとのこと。一方、マケインさんのスプラッシュページにはボランティア参加はもちろん、動画、「なぜマケインなのか」、「どこで投票するのか」、その他各種政策の入り口など、懇切丁寧。どちらが良いかというのは意見が分かれる所ですが、「分かりやすさ」という点では明白です。
と、オバマ氏絶賛の記事になってしまいましたが、今時点で選挙結果はわかりませんし、わたし個人としても特に民主党支持というわけでもありません(汗。でも、オバマさんには新しい鮮烈な「何か」を感じますし、それがデザインやメディアとどうつながっているか、を考察してみた次第なのでした。
なにはともあれ、アメリカ合衆国大統領ともなると善くも悪くも世界に影響を与える存在。ぜひ世界がうまくやっていく仕組みをデザインしてほしいものです。

