こころ
愛だろっ、 愛。
そんなCMが昔ありましたが。今にして、なんだかこのフレーズが胸に響くのです。
ふと、仕事に対する愚痴を口にしていたりする。そんな自分に気がつくと、「愛だろっ、愛」と私の心の中の永瀬正敏が強い視線で私を指摘するのです。
ああ〜、そうだな。愛だな、愛。
仕事や他人に愛を注ぐことをためらってしまうことが多い私。注ぎすぎて後でバカを見るんじゃないか、自分自身への客観性がなくなってしまうのではないか。そんな不安。
しかし、そんなこたぁない。愛情を注いだ仕事は結果、いつもいいものができている。たとえ他人の評価が悪くても、「愛情を注いだ」という自信が支えてくれる。ま、独りよがりになっちゃいかんですけどね。
幼稚園の先生が言ってたんです。
「子どもができたら、仕事と子育ての両立とかで悩むだろうけど、もうね、とりあえずは子育てに全身全霊を注いじゃえばいいのよっ」
「全身全霊を注いじゃえばいいのよ」って簡単に言いますけど、その割り切り感、随分と腑に落ちました。そうですね、愛とは見返りを求めない。
注いじゃえばいいんだね。仕事も、家庭も。
2010年 慰霊の日に想う
午前中の取材仕事を終え、散髪に行った。髪を切られながら、美容室の時計が正午を示したのに気づき、そっと目を閉じる。
今日は、沖縄戦で組織的戦闘が終結したとされる日。
この日は、散髪はもちろん、食事や買い物、当たり前にある日常生活のすべてが、特別なことに思えてしまう。実際には見たことのない65年前の戦渦のイメージが、頭の片隅にずっとあって、そのイメージと日常の平和な風景とのコントラストが、この日ずっとつきまとうのだ。
平和のうちに日々が過ぎることは、とても尊い。
今日の新聞に、県内の戦跡を紹介する頁があった。南城市内には150もの戦跡があるのだという。そのひとつ、糸数壕(アブチラガマ)の前を車で通った。たくさんのバスが停まっていた。年間を通して、糸数壕を訪れる人々は後を絶たない。
僕も一度だけ、糸数壕のガイドを受けたことがある。光の届かない闇の世界。水の音だけが響く。当時、この暗闇の場所に、どれだけのうめき声が響いたのだろう。
糸数壕の平和ガイドを担う「ゆうなの会」が作った紙芝居がある。その終盤、住民が壕から出た時の言葉が忘れられない。
「光がまぶしい。緑がきれいだ」
当たり前の平和な日常こそなにより尊いという感覚。僕や多くのウチナーンチュの心に根付いたその感覚は、沖縄戦で散った人々、生き残って語り継いできた人々が残したかけがえのないものだということを忘れてはいけない。
ハナとウタ
あー、なにもしない連休っていつぶり?? ちょっと心に余裕ができたのでブログでも書いてみます。
先日、南城市観光協会の主催でオープンガーデンが行なわれました。市内の民家のお庭を無料開放し、市内外から述べ1万人の観覧者があったとのこと。
で、このイベントを企画した観光協会の会長さんがイベントの最終日につぶやいた言葉が心に残っています。
「花は裏切らんからね」
自然は嘘つきませんからね。そして昆虫を引き寄せるように、人も引き寄せます。花を愛でる心は人類共通なのでは。
話変わって母の日。うちの母って飾りっけがないのでアクセサリー系がいいのかなとか、外食もほとんどしないのでご飯でも連れて行こうかな、などと悩みましたが、結局、母の好きな紫陽花をプレゼントしました。おそらくベストな選択だったと自負しております。
さて、歌についてもいろいろと書こうと思いましたが、ちょっと集中力が欠けて来たので、結局何がいいたいかというと、花を愛でる心や美しい歌に感動する心が地域や世界を救うのだ! という極端な結論です。
中途半端な記事になってしまいました。ちょっと買い物に行かなきゃ。
国境に花を! 戦場に歌を!
感性の問題だったりする
地元の中学校の入学式を取材してきました。ぼくの母校でもあります。
なぜか気になったのが体育館の音響。
スピーカーから流れる国歌や校歌の伴奏が、モノラルで音質が悪いのです。システムの問題なのか、音源の問題なのか分かりませんが。同じ市内でも他の中学校では音楽ホールで吹奏楽部が生演奏する所もあったりするので、ある意味その差に愕然としました。
中学校と言えば多感な時期。学校側もこの「多感」という言葉を深く理解したほうがいいと思うのです。
それは体育館の音響はもちろん、校舎の色や、校庭の草木、照明の明るさなど、出来る限りの環境を整えたほうがいいと思います。
結局のところ、学力向上を訴える前に、感性(感受性)の問題だったりする場面が、特に社会人になってから多く気づくことがあります。それはもちろん、小中高の思春期に養われるところが多かったりするのであって。
例えばプロジェクトを進める上で、メンバーの中に感性の高い人間がいるだけで仕事のし易さが格段に違う場合があります。仕事がかゆい所に手が届いてる感じ。そんな仕事をする人、周囲にいませんか?
今年の春のセンバツを制した興南高校の我喜屋監督の講演を拝聴する機会がありました。
「朝起きたらまず散歩。歩きながら、景色を見、音を聞き、匂いを嗅ぎ、帰ってきたらしっかり朝食を食べる。これで五感が目覚める。五感を目覚めさせることで、生徒は『気づき』が増える。ゴミ拾いも上手になる。それは練習にもつながり、自分の欠点を発見することになる」
ビジネスでもスポーツでも、つまるところ感性の問題だったりすることが多いわけで。コーチングする側(先生だったり親だったり上司だったり)は、感性を育む環境づくりによほど配慮を払うべきだと思うわけです。
尊いのは足の裏である
尊いのは足の裏である 坂村真民
尊いのは頭でなく
手でなく
足の裏である
一生 人に知られず
一生 きたない処と接し
黙々として
その努めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの
しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ
頭から光がでる
まだまだだめ
額から光がでる
まだまだいかん
足の裏から光がでる
そのような方こそ
本当に偉い人である
今日、クリスマスのミサに行ったらこんな詩に出会いました。地位や名声を求めることなく、すべきことを地道に。難しいけどね。
アパシーからシンパシーへ
今読んでいる本で「アパシー」という言葉を初めて知りました。冷淡、無関心、無感動、無気力、しらけ等の意味があるようです。
本書「コミュニティ・カフェと市民育ち」(萌文社)では、現在の地域コミュニティの諸問題は、市民の地域に対する無関心、「アパシー問題」がもたらしていると説明しています。
「面倒くさい」「そんなことに構っていられる時間はない」「だれかがなんとかしてくれるだろう」「そういうのは行政がやるべきだ」
地域に横たわる問題に対して、誰もが一度は感じたことのある言葉ではないでしょうか。
思えば、国と地方が抱える膨大な借金は、この一人ひとりの小さな「アパシー」の積み重ねであったとも言えるかもしれません(もちろん、ごく一部の既得権益層によるものもあるかもしれません)。
例えば福祉に関して。
かつては隣近所がお互いを気にし合い、気遣い合って、子どもを預かったり、お年寄りの世話をしたりという、コミュニティの力が存在したのだそうで。今でもお葬式のときは地域の青年会等が様々な役回りを買って出たりする地域もあるようですが、放っておけばそれもいつまで続くか、という状況です。
今では地域コミュニティの崩壊を補うかのように、子育てや介護の分野を事業者が、その多くは行政の補助を受けて担っています。つまりお金が必要になってきたということです。
そこへ来て、聖域なき構造改革の名の下に福祉への予算が削られたと。
あれだけの借金を抱えていたのでは、予算の規模縮小は仕方ないことだとは思いますが、政府は手順をひとつ飛ばしてしまったのではないかと私は思います。まずは地域コミュニティを再生させるべきだったのではないかと。
「困った時はお互いさま」といった感覚を市民が取り戻し、お金に頼らずに、地域の福祉を市民自らの力で支えていける状態にすることが先決だったのではないかと思うのです。
そういったことをふまえて(だと思いますが)、南城市では地域福祉計画なるものの策定を目指して市民ワークショップを開いています(詳しくはこちら)。
ともあれ、アパシーからシンパシー(同情、共感、共鳴、賛成)へ、市民の意識を変えて行くことが大切です。行政は予算の問題と同時に、地域社会の仕組みや根深い内面的な問題もあわせて議論すべきだと思います。
こんな世の中に、こんな空港。
鹿児島空港のタラップ車にイソヒヨドリが営巣したらしいです。
http://www.asahi.com/national/update/0516/SEB200905160001.html?ref=rss
そして、今日、無事に巣立ったんだとか。
http://www3.nhk.or.jp/news/t10013468601000.html
鳥もあっぱれですが、ここまで見守ってきた鹿児島空港の職員の皆さんもあっぱれ。
「無駄を省く」がスローガンのこのご時世に、この寛容さ。
心やさしき日本人のお手本を見た気がしますね。
問題意識、危機管理、と、おおらかさ、しなやかさ。
繰り返されるニュース速報、得体知れぬ故に煽られる不安。
ここ数日、新型インフルエンザの話題がメディアで持ち切りですが、北朝鮮のミサイル(人口衛星?)発射問題のときの既視感を感じてしまうのは私だけでしょうか。
あのときもそして今回も、国民が、というよりマスメディアと政府がヒステリックなまでに危機感を煽っていたように思えます。
もちろん、ミサイルもインフルエンザも怖いです。そのためにも、国としての対応はしっかりとしてもらわなければ困ります。ただ、その情報提供の仕方・程度に疑問を感じるのです。ひとり患者が発生するごとにニュース速報を流したり、時には不確定な情報まで流して、ミサイル問題のときは誤報までしてしまいました。
みんなで共有できる危機を持つことで、国としてのまとまりを保とうとしてる?? なんて余計な勘ぐりさえしてしまいます。
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時に人は、賢く生きようとするあまりに過剰な問題意識や危機意識を持つ場合がある、と思います。私個人としては、特に今の日本人にそんな傾向が強く感じられます。
大人達の話し合いは、みんな「ここが問題だ」「だれの責任だ」「甘い考えはタブーだ」という話ばかり。必要な議論だとは分かってはいるのですが、ちょっと辟易してるのも正直なところです。
今の世界に足りないもの、それは「おおらかさ」なのではないでしょうか。無駄口を言わず、怒声をあげず、素直に微笑み、臆せず抱き合う、そんな落ち着いた、懐の深い精神。問題に対しては、慌てず、責めず、冷静に裁き、失敗を静かに認め改める、そんな「しなやかさ」も必要だと思います。
と、言いつつも、誰だってそう願っていながらそうできないっていうのもあるんでしょうね。。。自分も含めて。
掃除。
長い間、ブログを休むと、改めて書き始めようとするときに、はたと手が止まってしまいます。
自転車と同じで、走っている間はぐんぐん進むけれど、止まってしまうと漕ぎだすのにパワーがいる。いま、ちょうどそんな状態。
前の行から悩むこと10分。
なんだかネタの重複になってるみたいで嫌だけど、この前取材に行った糸数公民館での話題を。
新しい公民館の落成祝いで「掃除サーブー」という余興がありました。この集落の伝統なのだそうだけど、あらゆるお祝いの前にこの「掃除サーブー」をやるんだとか。「お祝いでもなんでも、掃除をしないと始まらない」というのが理由なんだそうです。
掃除、という言葉には美徳や美学を感じます。
金はないけど暇はあるので掃除する、とか。
金はあるけど人に頼まずに自分で掃除する、とか。
そんな人はどちらも素敵だと思います。常に身の回りを掃き清めておく、ということは、なんだか人生を大切にしているような気がするのです。
うちの母なんて、気がつけば、食事作ってるか、茶碗洗ってるか、植込みの手入れしてるか、掃除してるかのどっちかです。働きものっす。孫が遊びに来るからって言って掃除するし、孫が帰った後も散らかったのを掃除するし。そんな母の姿勢は、家族を大切にしているように見えます。
掃除サーブーの精神もきっと、地域を大切にしてる証なのでしょう。
かく言う私はあまり掃除をしません。。。今度、家のトイレ掃除を自ら進んで買って出ようかと考えています。
こどもの気持ち
「全国こども電話相談室」というラジオ番組をご存知でしょうか。すでに番組は終了し、現在では「全国こども電話相談室・リアル!」という得体の知れないものに変わっているようです。
さて、「リアル!」はさておき、その前身である「全国こども電話相談室」のホームページがこちら。
http://www.tbs.co.jp/kodomotel/
ホームページにはこれまでの相談の記録が残されています。その質問内容にはいつ見ても驚かされ、はっとさせられます。例えば、
は、こどもの純粋な気持ちに感動すると同時に、それに対する長倉先生の回答も素敵です。ついでに言うと、終盤の藤田先生のぶっちゃけトークも素晴らしい。その他の例では、
広島の平和の石碑に「もう過ちを繰り返しません」と書いてありますが、その言葉は原爆を落としたアメリカ側の言葉なのではないですか?
この質問も回答も深いです。
こどもが抱く気持ちや疑問、どれも現代の大人たちが忘れかけているものばかりではないでしょうか。神様がこどもたちの口を借りて問いかけている気さえします。
他にも面白い質問・回答がありますので、皆さんも読んでみてください。