環境
南城市都市計画 風致地区の指定に関して
旧4町村が合併して以来、これまで南城市には市全体としての統一的・一体的な都市計画・土地利用計画がありませんでした。現在のところ、都市的開発をすべき地域に過剰な制限があったり、自然景観を守るべきところになにも制限がなかったりと、いびつで矛盾をはらんだ制度が横たわっています。
そこで、南城市は現在、合併前の旧来からある都市計画から離脱し、南城市単独の新しい都市計画を制定するべく動いています。
その中の特徴的なもののひとつとして「風致地区」の指定と言うものがあります。
これはある程度の開発を認めつつ、建物の建ぺい率(敷地に締める建物の面積の割合)や高さを制限するもので、まちなみや文化財などの風致(=おもむき、あじわい、風趣)を保全していく制度です。
豊かな自然環境や歴史文化遺産の数多くある南城市にとっては、最適な都市計画制度だと思います。
しかしながら、地権者にとっては個人の資産価値を左右する重要な問題です。先日行なわれた住民説明会では「土地の値段が下がるのでは」という不安や怒りの声が噴出しました。自由に使える土地に制限がかかるのですから、不動産売買を考えていた方にとっては当然の心配だと思います。
実は私は、この都市計画のワークショップのメンバーです。風致地区指定に賛成してきただけに、このように強い抵抗感を持つ方もいる考えに至らなかった自分の想像力のなさに、多少の責任を感じたりしております。はい。
そこで、調べてみました。こういうときは冷静かつ中立的になることが大事です。ネットでざっくりとですが。。ズバリ、「風致地区に指定されると土地の価値は下がるのか」??
結果から言うと、そんなことない気もします。風致地区に指定されることによって土地の価値は維持されるのではないかと。本土ではかえって「風致地区解除」に対する反対が多いです。
ある人が家を建てたいとすると、その場所が風致地区ならその周辺も風致地区であり、住環境として考えた場合、「ゆとり」と「緑」と「静けさ」のある場所ということに価値を感じる人が多い、ということがその理由。
一見、不動産業者さんの視点から考えると、建てられるマンションの部屋数もすくなくなるし「効率」という価値観では非常に不便な制度。
しかし、実際に住む人の立場から考えると、風致地区に住むと言うことは「ゆとり」という価値観からして非常に魅力的な土地、ということになります。
端的に言うと、「効率」と「ゆとり」という2つの価値観の対立ということになりますが、マーケティング視点からいうと売り出し方やターゲット設定の問題であり、風致地区に指定されたからといって資産価値が下がるとは言えないのではないかと。むしろ「ゆとり」の住環境を求めるターゲット層には魅力的で価値の高い土地となると思います。
ぼくが今回のことで心配しているのは、今回の都市計画で市民の間に妙な軋轢が生じ、市民一体となったまちづくりへの支障が出てこないかということ。
議論はもちろんありです。多いにやるべきです。
けれど、議論が終わった後の「融和」も民主主義にとっては大事なステップのひとつ。市民自身の心がけも大切ですが、行政としてもしっかりと説明責任を果たし、都市計画策定後のアフターケアも考慮してほしいと思います。
天の恵み 地の恵み
僕も、結局は「救うのは太陽だと思う」のです。
世界は石油で動いていると言っても過言ではありません。今も、そして歴史も。近代の戦争は、端的に言えば資源を巡る戦争でした。とりわけ、第二次大戦以降はほとんど石油を根っこに持つ戦争だったと言っていいかもしれません。
地下資源はまさに地獄の悪魔からの贈り物なのでしょうか。戦争を巻き起こし、温暖化を助長し、持つものと持たざるものとで大きな富の格差を生み出す。いや、地下資源だって自然界からの大いなる「恵み」であることに間違いないでしょう。それを扱う人間の問題です。
世の中は陰と陽とで作られていて、そこに善悪などない。つまるところ調和やバランスの問題だと思うのです。僕たちは人類はエネルギーに関して地下資源に依存しすぎました。地下資源を陰だとすれば、天からの恵み「太陽光」は文字通り「陽」の属性。
太陽光は永久的に、そしてほぼ平等に地球にふり注ぎます。つまりは太陽光を効率良くエネルギーとして活用する術(または道具)さえあれば、格差はなくなり、限りある資源を巡って争うということもなくなるのではないでしょうか。
僕は、テクノロジーは結局のところ新たな問題を生み出す凶器だと、心のどこかで開き直っていました。でも、ソーラー技術だけは、意外とあらゆる問題を一気に解決してくれるブレイクスルー技術なんじゃないかと考えたりしています。
特に、世界の電気が通っていない土地にはかなり有効だと思います。ある程度ソーラー技術が進歩し、耐久性などが向上した暁には、国際支援はまずソーラーパネル設置に集中すべきではないかと思います。
日本においてもそうです。けれどまだまだ太陽光発電のコストは高いもの。導入はまだだとしても、天の恵みに意識を傾けて見るだけでも、世界への感謝や希望が見えてくる気がします。
ECO vs MOTTAINAI
エコポイント制度というものが始まったそうで、政府はより消費電力の少ないテレビやエアコン、冷蔵庫などの電化製品の買い替えを促しています。
これは、「こんな電力を使う電化製品を使うのはもったいない!」から買い替えましょう、という理解でよろしいのでしょうか。
なんとなく、うちのおばあちゃんとか母親が使う「もったいない」の使い方は「まだ使えるのに捨てるのはもったいない」という感じだった気が。。。
先日、NHKの番組で環境大臣が「環境に対するコストは、製造・廃棄の部分が10%で、残りの90%は運用期間」、だから廃棄することによる環境への負担は、エネルギー効率の悪い電化製品を使い続けることに比べれば大したことではない、みたいなことを言ってました。
うーむ、エコともったいないは相反するものなのか。
ちなみにWikipediaによると、「もったいない」についてこう述べています。
日本の民族信仰である古神道を源流とする神道においては、「散る桜の花びら」や、「吐息の一つ一つ」にまで命が宿るとされ、森羅万象に対して、慈しみや感謝の念をもって接してきた。その心根が「もったいない」という価値観の根底に流れている。
今の日本のエコ政策には、そういう環境に対する「こころ」の部分があるのでしょうか。。
非電化製品
電気について話をしましょう。
電気は私たちの生活を便利にしました。そんな話はもうみんな分かっていて、今さら僕がここで語ったってつまらないことです。では、電気があることで私たちの生活からなくなったものはなんでしょう。
藤村靖之・著「愉しい非電化」(洋泉社)は、電気は私たちから「愉しみ」や「生活の豊かさ」を奪った(奪ったは言い過ぎかも)、そんなことを教えてくれます。
例えば、「非電化除湿器」。
湿気を吸い取るろ紙が並んでいるだけのものです。何が愉快かって、湿気を吸わせたあとは、晴れた日に天日に干してまた使うっていうプロセスが愉しい。同時に、現在の電化製品の除湿器のように、過度な除湿は必要ないってことを教えてくれます。ほどほど、のんびり、湿気をとってくれるのがちょうど心地よい。
他には、「少し面倒な卓上浄水器」。
一杯のおいしいお水を飲むのに活性炭素入りの容器のピストンをせっせと上下。これもプロセスを愉しみ、実際の味以上のお水のおいしさがプラスされるのだと思います。
生活とは絶え間ないプロセスの積み重ね。結果を早急に求めるのではなく、そのプロセスを楽しむことこそ生活の豊かさを向上させるポイントなのではないでしょうか。もちろん、地球環境にとっても。
この本の第5章「非電化の意味論」は大変面白くも先見的な世の中の見方を与えてくれます。
例えば「リープ・フロッグ(跳び蛙)理論」。
先進国は「発展途上国が発展すると、地球環境がもたないから、発展しないでくれ」と思う。発展途上国は「これまで環境を悪くし、現在も悪くしすぎているのは工業国ではないか。環境を犠牲にして自分たちだけ豊かになっておいて、われわれには貧しいままでいろと言うのか」と反論する。いわゆる南北問題。
しかし、この理論から言わせると、現在の工業国の技術はエネルギー多消費型・化学物質依存型であり、環境・安全の尺度で見ると決して先進国ではない。発展途上国はそのような「環境後進国」の後追いをするのではなく、はじめから「環境先進技術」を取り入れればよい。つまり工業国よりも一気に先に進んでしまえ!=跳び蛙というわけです。
「ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)」という言葉を教えてくれたのもこの本。私の考え方を一転させてくれた本の一冊です。
レジ袋
昨日、ビールとおつまみを買いに行ったらレジで「マイバッグはお持ちですか?」と聞かれました。どうやら、今日10月1日より沖縄県の主要スーパーではレジ袋が有料になるのだそうで。持ってませんと答えたら、これが最後だ大盤振舞とでも言わんばかりに、大きなレジ袋に買ったものを入れてくれました。
以前、東京の友人からメールが送られてきました。「偽善エコロジー」(武田邦彦著/幻冬舎新書)という本を読んでの感想でした。世の中、何が本当で何が間違いか分からないですね、とのこと。偶然にも私もその本を持っていたのですが、中身をまだ読んでなかったりしたので、これを機会に読んでみましたが、いや、これがなかなか過激と言うか衝撃的と言うか。
例えば、「レジ袋を使わない」というエコ思想は「ただのエゴ」と一刀両断しちゃったりしてます。レジ袋に使われている石油成分は、それまで使い道がなく燃やされていた成分を活用したもの、なんだとか。だから、レジ袋だけをなくしても石油の消費量は減らないし、むしろマイバッグをつくったり専用ゴミ袋をつくったりすることで石油消費量は増えるんだそうです。
もし本当なら興味深い内容だと思います。この本に書いてあることが本当かどうかも分からないのと同様に、思い返せば確かにレジ袋を使わないことがエコにつながるかどうかも、私自身確かめた訳でもないし、グローバルな観点での証明も見たことがないので、本当かどうかわかりません。ただ環境省やNHKや公共広告機構のキャンペーンの知識だけで行動していると言っても過言ではないかもしれません。
とかくエコロジーは難しい分野だと思います。特に最近は、成熟し行き詰まった経済の新しい市場と化している感があります。ドライに見れば、業界全体でレジ袋を有料化すればスーパーの無駄な経費は減り、エコバッグやゴミ袋を売ることで確かに売上は上がります。
思考停止状態に陥ってはいけないと思いつつも、この謎を解明しようと考えるだけでその果てしなさにげんなりします。ああ、誰か本当のことを教えてください。
生活者としての教育
食品偽装の問題が次々と表面化しています。これは商品を提供する業者側のモラルの問題だということに間違いはありません。ただ、彼らをそこまで追い込んだ「何か」があることもまた事実なのではないでしょうか。その「何か」は私にははっきりとわかりません。
ただ、回り回って影響しているように感じるのは、私たち消費者・生活者が賢く振る舞っているか、という問いかけがあるように思えます。自戒を込めて言うと、高い・安いという価値判断だけでなく、広く鋭い目をもって商品を選んでいるでしょうか。
生活者としての賢さがなければ、その隙に付け込んで業者が悪意をもってしまったり、また善良な業者であっても原料の質を下げてしまうか生産をストップするかの選択を迫られたりする状況になる場合があります。
地産地消や地域ブランドなどは確かに素晴らしい考え方です。しかしながら、昨今はそれがブームのように急激に盛り上がりすぎて、消費者としての知識やスキルのないまま、食品偽装の被害者になっているような気がするのです。その商品がどのようなプロセスで今売り場にあるのか、地域ブランド品としての確証はあるのかなど、それを消費者として知る術を学ぶべきであるとともに、社会的にもそういう基盤が成熟する前に一気に加熱した感が否めません。
と、まあそれだけでなく、少し話を変えると、シャンプーや石けんの場合。口から摂取するよりも、皮膚から吸収する添加物のほうが危険であると言うことを私たちは学校では教えられませんでした。口から摂取する場合は内蔵・肝臓・腎臓などあらゆる場面で毒素は濾過されます。しかし、皮膚から吸収されるものはそのまま血中にとけ込み、少しずつ身体に負担をかけていくのだそうです。
また、最近流行のオール電化。CO2削減のムーブメントに乗って、エコロジーであることを売りに電力会社が広めています。オール電化は原子力発電の上ではじめて効果があるようです。その原子力発電も未来の世代に長くその廃棄物を負担させることになります。沖縄の場合で言うと、沖縄の電力供給はほとんど化石燃料で供給されているため、オール電化にしてもCO2削減の効果は少ないのではないかと思います。
ということで、テレビ見ながら書いてるので集中力がなくなってきましたw。とりあえず、そういう生活者視点の教育を日本はもっと押し進めるべきだと思うのです。
畑からの風
ここ最近、朝はずいぶん涼しくなってきました。今朝も窓から流れ込む風が気持ちよくて、目が覚めたあとも呼吸をするのが気持ちよかったのでしばらくまどろんでいました。
私の部屋の窓の向こうには、バナナ畑があります。バナナ畑からは、真夏の暑い日でも涼しい風が運ばれてきます。なので、私の部屋は昼間でもファンさえあればエアコンは必要ありません。バナナの木の葉っぱというのは結構大きいです。その大きな葉が地面を覆い、地表熱が上がるのを防いでくれているのでしょう。
また、大きな葉が擦れる音も心地よく、雨が降ったときなども、雨粒が葉っぱに跳ねる音も心地よいものです。畑と言うのは、大きな癒し発生機なのかもしれません。
南城のような田舎では、車は窓を開けて走らせます。しかし、那覇のような都市部に行くと一転してムッとした空気が車内に入り込み、窓を閉めてエアコンを付けずにはいられなくなります。アスファルトやコンクリートのビルで隙間なく地表を覆い尽くしているのですから無理もありません。
那覇のような都市にも、一定のエリアごとに一区画、畑を置くだけでもずいぶんと変わるのではないか、と最近思うようになりました。「変わる」というのは、空気の流れはもちろん、人の心のゆとりとかも。
知り合いの主婦の方は、なにか嫌なことがあると畑に行って土いじりをするのだそうです。そうすると嫌なことを忘れて心が静かになると。都市の中にそういう畑スペースがあって、マンションの一室でこもりきりだった主婦やお年寄りが畑に集い、コミュニケーションをとりながら畑を管理していければ理想的です。
また、そういう風景を、外回り中のサラリーマンがふと足を止めて眺めるのも、なんだかほっとする瞬間なような気がします。
那覇国際通りの一画に、バナナの木に覆われた癒し空間。意外といいと思うのですが。