日常
愛だろっ、 愛。
そんなCMが昔ありましたが。今にして、なんだかこのフレーズが胸に響くのです。
ふと、仕事に対する愚痴を口にしていたりする。そんな自分に気がつくと、「愛だろっ、愛」と私の心の中の永瀬正敏が強い視線で私を指摘するのです。
ああ〜、そうだな。愛だな、愛。
仕事や他人に愛を注ぐことをためらってしまうことが多い私。注ぎすぎて後でバカを見るんじゃないか、自分自身への客観性がなくなってしまうのではないか。そんな不安。
しかし、そんなこたぁない。愛情を注いだ仕事は結果、いつもいいものができている。たとえ他人の評価が悪くても、「愛情を注いだ」という自信が支えてくれる。ま、独りよがりになっちゃいかんですけどね。
幼稚園の先生が言ってたんです。
「子どもができたら、仕事と子育ての両立とかで悩むだろうけど、もうね、とりあえずは子育てに全身全霊を注いじゃえばいいのよっ」
「全身全霊を注いじゃえばいいのよ」って簡単に言いますけど、その割り切り感、随分と腑に落ちました。そうですね、愛とは見返りを求めない。
注いじゃえばいいんだね。仕事も、家庭も。
感性の問題だったりする
地元の中学校の入学式を取材してきました。ぼくの母校でもあります。
なぜか気になったのが体育館の音響。
スピーカーから流れる国歌や校歌の伴奏が、モノラルで音質が悪いのです。システムの問題なのか、音源の問題なのか分かりませんが。同じ市内でも他の中学校では音楽ホールで吹奏楽部が生演奏する所もあったりするので、ある意味その差に愕然としました。
中学校と言えば多感な時期。学校側もこの「多感」という言葉を深く理解したほうがいいと思うのです。
それは体育館の音響はもちろん、校舎の色や、校庭の草木、照明の明るさなど、出来る限りの環境を整えたほうがいいと思います。
結局のところ、学力向上を訴える前に、感性(感受性)の問題だったりする場面が、特に社会人になってから多く気づくことがあります。それはもちろん、小中高の思春期に養われるところが多かったりするのであって。
例えばプロジェクトを進める上で、メンバーの中に感性の高い人間がいるだけで仕事のし易さが格段に違う場合があります。仕事がかゆい所に手が届いてる感じ。そんな仕事をする人、周囲にいませんか?
今年の春のセンバツを制した興南高校の我喜屋監督の講演を拝聴する機会がありました。
「朝起きたらまず散歩。歩きながら、景色を見、音を聞き、匂いを嗅ぎ、帰ってきたらしっかり朝食を食べる。これで五感が目覚める。五感を目覚めさせることで、生徒は『気づき』が増える。ゴミ拾いも上手になる。それは練習にもつながり、自分の欠点を発見することになる」
ビジネスでもスポーツでも、つまるところ感性の問題だったりすることが多いわけで。コーチングする側(先生だったり親だったり上司だったり)は、感性を育む環境づくりによほど配慮を払うべきだと思うわけです。
自信
ぶっちゃけ、自分の能力や実績に自信があるかと聞かれれば、胸を張って「Yes!」と答えられる自信は、ない。
とはいえ、思う。自分のことは嫌いじゃない、と。僕にだっていいところはたくさんあるのだと思う。
けれども、その自分の良さがこの1年発揮できたかと言えば、そうでもないような気もする。
のびのびとなんでも言えたらと思う。臆することなく行動できたらと思う。
これは僕個人の気質や性格の問題なのだろうな。
原点に戻ろう。仕事とは、
- 社会にどう貢献できるか。
- 自己実現を達成できるか。
- 大切なものを守れるか。
だ。きっと。そう思えば臆することはない。卑屈になる必要もない。まだ若いのだ(いやそうでもないけど)。小さな成功体験と反省を重ねるだけだ。いざ進め、おれ。
古本の傍線
久々に古本屋に行きました。
買ったのは司馬遼太郎の「坂の上の雲」。今度大河やるみたいですね。2年前、とある視察で松山に行ったときに「坂の上の雲ミュージアム」という施設でその存在を知って、「うぉー読みてー」と思い、沖縄に帰ってきた足で本屋に行ったのですが、なんと分厚いのが全8巻。買う前から挫折しておりました。
古本なら、なんとなく1巻だけ読んでもいいかな、と思い買って、喫茶店で読書。結構、読み易い。
ふと、所々にマーカーで傍線がひかれているのに気づきました。最初は「げっ、変なの買っちゃった!」と絶句しましたが、「古本だから仕方ない」と。
しばらく読んで行くと、どうも傍線が気になる。ストーリーよりも「なんでここに傍線をひいてるんだ?」というほうに興味が移動し、ぱらぱらとめくる。
「正岡子規である」、「春や昔十五万石の城下かな」、「秋山信三郎好古は、」、「土佐は官軍である」、「土佐藩は、松山藩を占領すべく北上した」、「二百人たらず」、「朝廷に降伏せよ。十五万両の償金を朝廷にさしだせ」、「結局はそれに従う」・・・。
とりあえず、登場人物と俳句系にはひかれているのは分かったんだけど、それ以外は不明。傍線のある部分だけ読めばあらすじがわかる?? と思ったけど、そんなはずなく。。
でも見ず知らずの人の思考を想像するのって、なんとなくおもしろい。特に本の傍線なんて、読書中は自分ひとりの世界(というか自分さえも離れた世界)なので、当たり前だけど他意がなくてその人の率直な行動だろうし、その人の素が垣間みれるような気がします。
波乱のこのごろ。
7月2日に祖母が101歳で亡くなりました。まったく見事と言っていい程、「生ききった」感があると思います。
6月は通常の広報誌制作の仕事に加え、助成金公募のプレゼンテーションや、短い納期のWebサイト制作、エリアコーディネーター養成講座、久高島への出張など、休みと言っていい日はほとんどなく、そこへ7月に入ってすぐに祖母の死、というなんとも物理的にも精神的にもキャパシティーぎりぎりのところでしたよ。
でもまあ、サイトも先日無事オープンし、助成金にも採択され、と結果オーライな感じではありますが。意外と集中力が保ててたのかもしれませんね。こんなとき、「おばあちゃんが見守っててくれたのかなぁ」なんて思ったりもします。というか、きっとそうだと思います。ありがとうね、おばあちゃん。
身内が亡くなった経験は今回が初めてだったのですが、不幸な死ではないのでなんというかお祝い事に近い雰囲気で。だけど、通夜を済ませた翌日、お棺が火葬の炉に入って行くときに初めて泣いちゃいました。今でもなんであのときに泣けてきたのか分かりませんが。。
なんだかごく個人的な独り言で恐縮です。ともかく、まあ、7月はちょっとゆっくりしたいな〜と思いつつも、助成金事業の最初のマイルストーンが8月に迫ってたりします(泣。
天地人
宮﨑あおいに続いて大河ネタ。NHK大河ドラマ「天地人」、です。
初回から、「なにコレ??」って感じで見てましたが、見続けていると意外とクセになってたりします。ゲーム好きでもない私ですが、「戦国無双」にはハマってたので潜在的な適性があったんでしょう。時代設定、人物設定、映像表現、どれをとっても「戦国無双」を彷彿とさせます。
これまでの大河ドラマの中でも演出がかなり冒険的。背景を真っ黒にして舞台演技のような表現手法をとったり、BL的なちょっと危ういところを狙ってたり(戦国萌え!な女の子たちに人気だそうです)、本能寺の変に至っては爆発したり、といろいろ話題。(の割りには視聴率は奮ってないようで。)
変わった演出ゆえに、ネット上の口コミサイトでいろいろツッコミを入れられたりしてますが、そんなツッコミをさらにあざ笑うかのように変化球的な演出を繰り出す、その様はまさに神出鬼没の上杉の戦術??
掃除。
長い間、ブログを休むと、改めて書き始めようとするときに、はたと手が止まってしまいます。
自転車と同じで、走っている間はぐんぐん進むけれど、止まってしまうと漕ぎだすのにパワーがいる。いま、ちょうどそんな状態。
前の行から悩むこと10分。
なんだかネタの重複になってるみたいで嫌だけど、この前取材に行った糸数公民館での話題を。
新しい公民館の落成祝いで「掃除サーブー」という余興がありました。この集落の伝統なのだそうだけど、あらゆるお祝いの前にこの「掃除サーブー」をやるんだとか。「お祝いでもなんでも、掃除をしないと始まらない」というのが理由なんだそうです。
掃除、という言葉には美徳や美学を感じます。
金はないけど暇はあるので掃除する、とか。
金はあるけど人に頼まずに自分で掃除する、とか。
そんな人はどちらも素敵だと思います。常に身の回りを掃き清めておく、ということは、なんだか人生を大切にしているような気がするのです。
うちの母なんて、気がつけば、食事作ってるか、茶碗洗ってるか、植込みの手入れしてるか、掃除してるかのどっちかです。働きものっす。孫が遊びに来るからって言って掃除するし、孫が帰った後も散らかったのを掃除するし。そんな母の姿勢は、家族を大切にしているように見えます。
掃除サーブーの精神もきっと、地域を大切にしてる証なのでしょう。
かく言う私はあまり掃除をしません。。。今度、家のトイレ掃除を自ら進んで買って出ようかと考えています。
夕刊という「時間」
沖縄県内の新聞社2紙が、夕刊を廃止するそうです[報道はこちら]。
何を隠そう、私は朝刊より夕刊のほうが好きだったりします。あのちょうど良い情報量や、生活・文化に関する記事やコラムがいいと思うのです。
いまやインターネットがあるからいいんじゃない? という意見が大半だとは思いますが、そういうことではないんです。
フリーランスなどという仕事、特にIT関連ですと、気がつけば1日中パソコンの前、という日も珍しくはありません。なので、僕は午後4時くらいになると近くの喫茶店で100円台の珈琲を飲みながら夕刊を読んでリフレッシュするのです。いわば、夕刊がそういったほっとする時間を提供してくれている気がするのです。
広い紙面にゆっくり目を通し、3回ページをめくれば、休憩としてちょうど良い時間。このちょっとしたスローな時間はネットでは難しいと思います。
ああ、残念。
音楽。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
新年の海を見たいと思って「浜辺の茶屋」へ。年末からずっと風邪をひいているのにも関わらず、なんだかそんなに寒くもないので外の木陰の席へ。ちょうど満ち潮の時間のようで。海の音、風の音を聞きながらホットのカフェオレ(そういえば最近50円値上げ!)をすする。
浜茶のおやじさんは新年早々も投網。結構お魚が採れたみたい。ぽつりと一言。「波が変だなぁ」。どうやらインドネシアの地震の余波がここにも来ているらしいです。素人の僕には穏やかな海にしか見えないのだけれど、言われてみれば波の形が複雑な気がしました。
こんな小さな南城の小さな海も、世界とつながっている。震源地の皆さんの大変さを頭では分かっていながら、そんなのんきなことを言っていられる。そう思うと、心の中が複雑になって(そう、その波のように)、そんなときはなにか楽器が弾けたらなぁと思うのです。
なにか楽器を小脇に抱えて、ポロロンと弾きながら歌をうたいたくなるのです。
それはどちらかというと、誰かに聴いてほしいと言うよりも、ずっと内向的な欲求。自分の中の複雑な波を穏やかにしたいため。か、もしくはその逆。波をもっと荒立てたいのかも。
名作と言われる音楽(のみならず文学も絵画も)は、内向的なものが多いような気がします。自分の心の中のなにがしかと対話するような、そんな作品。その内向的な震源地のエネルギーが、仕方なしに、否応なく、外側へ波紋し、結果として表現となるような、そんな感じ。
音楽が世界を救ったことがあるだろうか。音楽が戦争を停めたことがあるだろうか。しかし少なくとも、音楽は人ひとりひとりの人生をどこかのタイミングで救っているような、そんな気がします。
音楽がある、この地球に、感謝。
不況、と、勇気。
こんな不況の状況下では、社会システムの不備が表面化しやすいんだと思います。
雇用不安は説明する必要もない程で、不況に関係するかどうか分かりませんが、医療の現場では医師の数が不足(不均衡?)していたり。
Mr.Childrenの「HANABI」という歌にこんなフレーズがあります。
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?
「臆病風に吹かれた世界」って、なんて言い得た表現だろうって思うんです。今の日本(のみならず世界も?)の状況はまさにそんな感じ。
株主からの非難を恐れる大企業は資金的な備蓄があるにも関わらず四半期だけの赤字を理由に雇用を減らしている状況然り、医療に関しても出産や小児科を初めとする救急分野や財政難に喘ぐ地方に医師が足りてないという状況然り。
勇気が足んないんじゃない??
って私は声を大にして言いたいっす。勇気を使命感って言い換えてもいい。株価だってそう。アメリカの株価が落ちたからって日本の株式市場からお金を引き揚げる必要もないし、円高が進んだんならそこに有利な企業に再投資するくらいの「責任感」は持ってほしいと思うのです(経済ベタなんで的外れな意見かもだけど)。
ええ、精神論ですけど。ただ、精神論のなにが悪いとも思います。精神論なき社会システムの成れの果てが今の負の循環を生み出しているのでは?
勇気だとか使命感って言葉が正義感ぶって嫌だっていうのであれば「商い魂」って言ってもいい。本当の商人ってのは社会的使命を自覚しながらポジティブに商売を行なっていたはず。ちなみに、外食が減ったらたこ焼き器が売れるんだってよ!