祈り
まずは東日本大震災の被害に遭われた方々に、深くお見舞い申し上げます。
あれから1週間が経とうとしています。もう1年分のニュースを聞いた気がします。被災地から遠くはなれた沖縄でさえ、刻々と伝えられるニュースを見聞きするたびに胸が詰まる思いでいっぱいなのに、現地の方々の不安はいかばかりかとお察しします。
何ができるかも分からず、日々の締切に追われる毎日ですが、ただただ、募金箱を見るたびに千円札を入れている僕です。
昨日、南城市で地域おこしをしているHさん[blog]から電話がありました。
「南城市としてなにかできることはないかね〜。暖かい南城市にきてもらって、廃業したホテルの空き部屋とか、公共施設の空き部屋とかを、被災者に使ってもらうとかさ」
アイデア自体はいろいろクリアすべき壁があるにしても、僕も地域おこしに片足を突っ込んでいるから気持ちは分かるのですが、そういう方は地元の発展だけでなく、他の地域の心配もしてしまいます。そういう仲間が南城市にいることに、心強く思いました。
南城市内のイベントも、震災による影響でいくつか延期や中止が発表されています。
ただ僕個人としては、むしろ日本全体の活力を低下させないためにもあえて実施すべきではないかと思うのです。それが被災していない地域の役割ではないでしょうか。
さらに付け加えるのであれば、今後日本で開催されるイベントをすべてチャリティー化すべきとも思います。余計なお金をかけず、収益を被災地援助にあてる。日本全国で被災地を支えなければならない。
今回の震災で日本人が変わろうとしている兆しを感じます。ぜひ日本人らしい良さを意識的に取り戻し、日本人らしいやりかたで復興していけるよう、祈りますし、僕自身もその実現に関わっていけたらと思います。
愛だろっ、 愛。
そんなCMが昔ありましたが。今にして、なんだかこのフレーズが胸に響くのです。
ふと、仕事に対する愚痴を口にしていたりする。そんな自分に気がつくと、「愛だろっ、愛」と私の心の中の永瀬正敏が強い視線で私を指摘するのです。
ああ〜、そうだな。愛だな、愛。
仕事や他人に愛を注ぐことをためらってしまうことが多い私。注ぎすぎて後でバカを見るんじゃないか、自分自身への客観性がなくなってしまうのではないか。そんな不安。
しかし、そんなこたぁない。愛情を注いだ仕事は結果、いつもいいものができている。たとえ他人の評価が悪くても、「愛情を注いだ」という自信が支えてくれる。ま、独りよがりになっちゃいかんですけどね。
幼稚園の先生が言ってたんです。
「子どもができたら、仕事と子育ての両立とかで悩むだろうけど、もうね、とりあえずは子育てに全身全霊を注いじゃえばいいのよっ」
「全身全霊を注いじゃえばいいのよ」って簡単に言いますけど、その割り切り感、随分と腑に落ちました。そうですね、愛とは見返りを求めない。
注いじゃえばいいんだね。仕事も、家庭も。
地域を見つめる
「地域を見つめる」と一言でいっても、実際それを言葉通りにやるのは難しい。
見ているつもりでいても、風景が当たり前すぎて見落としている場合もあるし、かと言って目を凝らしすぎても近視眼的になり、客観的な地域の良さを見失う場合もある。
「見つめる」ことは、俯瞰と凝視を絶えず繰り返さなければならないのかもしれない。
長らく地域に住んでいると、そこにあることが当たり前すぎて、それが地域の宝であることを忘れてしまうことがよくありそうだ。
広報なんじょう8月号は「地域の宝・再発見」と銘打って、そんな見過ごされがちな地域の宝を特集・連載することにした。第1回は「石獅子」だ。
取材中、地図があっても発見するのが困難な石獅子もあった。地域の人々に聞いて回り、結局、足の踏み入れようのない草むらに埋もれていることがわかった場合もあった。しかし、発見したときは本当に宝物を見つけたような喜びがある。
また、取材を進めながら、地域の人から石獅子以外の話が次々と飛び出した。この話も本当に面白かった。取材班のメンバー自身、石獅子探しというきっかけから、地域を見つめることがほんの少しできたような気がする。
このような特集を始めたのも、市民に地域を見つめるきっかけになればとの願いから。もちろん、家族や仕事に気をかけることは生きていく上で必要だけど、同様に地域に気をかけることも、今回の特集をきっかけとして市民の中で始まっていただけると幸い。そこから派生的に地域の課題すべき問題点も気づいていくかもしれない。問題意識が生まれれば、それは住みよい町の種になる。
広報8月号は8月5日発刊です。
2010年 慰霊の日に想う
午前中の取材仕事を終え、散髪に行った。髪を切られながら、美容室の時計が正午を示したのに気づき、そっと目を閉じる。
今日は、沖縄戦で組織的戦闘が終結したとされる日。
この日は、散髪はもちろん、食事や買い物、当たり前にある日常生活のすべてが、特別なことに思えてしまう。実際には見たことのない65年前の戦渦のイメージが、頭の片隅にずっとあって、そのイメージと日常の平和な風景とのコントラストが、この日ずっとつきまとうのだ。
平和のうちに日々が過ぎることは、とても尊い。
今日の新聞に、県内の戦跡を紹介する頁があった。南城市内には150もの戦跡があるのだという。そのひとつ、糸数壕(アブチラガマ)の前を車で通った。たくさんのバスが停まっていた。年間を通して、糸数壕を訪れる人々は後を絶たない。
僕も一度だけ、糸数壕のガイドを受けたことがある。光の届かない闇の世界。水の音だけが響く。当時、この暗闇の場所に、どれだけのうめき声が響いたのだろう。
糸数壕の平和ガイドを担う「ゆうなの会」が作った紙芝居がある。その終盤、住民が壕から出た時の言葉が忘れられない。
「光がまぶしい。緑がきれいだ」
当たり前の平和な日常こそなにより尊いという感覚。僕や多くのウチナーンチュの心に根付いたその感覚は、沖縄戦で散った人々、生き残って語り継いできた人々が残したかけがえのないものだということを忘れてはいけない。
ハナとウタ
あー、なにもしない連休っていつぶり?? ちょっと心に余裕ができたのでブログでも書いてみます。
先日、南城市観光協会の主催でオープンガーデンが行なわれました。市内の民家のお庭を無料開放し、市内外から述べ1万人の観覧者があったとのこと。
で、このイベントを企画した観光協会の会長さんがイベントの最終日につぶやいた言葉が心に残っています。
「花は裏切らんからね」
自然は嘘つきませんからね。そして昆虫を引き寄せるように、人も引き寄せます。花を愛でる心は人類共通なのでは。
話変わって母の日。うちの母って飾りっけがないのでアクセサリー系がいいのかなとか、外食もほとんどしないのでご飯でも連れて行こうかな、などと悩みましたが、結局、母の好きな紫陽花をプレゼントしました。おそらくベストな選択だったと自負しております。
さて、歌についてもいろいろと書こうと思いましたが、ちょっと集中力が欠けて来たので、結局何がいいたいかというと、花を愛でる心や美しい歌に感動する心が地域や世界を救うのだ! という極端な結論です。
中途半端な記事になってしまいました。ちょっと買い物に行かなきゃ。
国境に花を! 戦場に歌を!
感性の問題だったりする
地元の中学校の入学式を取材してきました。ぼくの母校でもあります。
なぜか気になったのが体育館の音響。
スピーカーから流れる国歌や校歌の伴奏が、モノラルで音質が悪いのです。システムの問題なのか、音源の問題なのか分かりませんが。同じ市内でも他の中学校では音楽ホールで吹奏楽部が生演奏する所もあったりするので、ある意味その差に愕然としました。
中学校と言えば多感な時期。学校側もこの「多感」という言葉を深く理解したほうがいいと思うのです。
それは体育館の音響はもちろん、校舎の色や、校庭の草木、照明の明るさなど、出来る限りの環境を整えたほうがいいと思います。
結局のところ、学力向上を訴える前に、感性(感受性)の問題だったりする場面が、特に社会人になってから多く気づくことがあります。それはもちろん、小中高の思春期に養われるところが多かったりするのであって。
例えばプロジェクトを進める上で、メンバーの中に感性の高い人間がいるだけで仕事のし易さが格段に違う場合があります。仕事がかゆい所に手が届いてる感じ。そんな仕事をする人、周囲にいませんか?
今年の春のセンバツを制した興南高校の我喜屋監督の講演を拝聴する機会がありました。
「朝起きたらまず散歩。歩きながら、景色を見、音を聞き、匂いを嗅ぎ、帰ってきたらしっかり朝食を食べる。これで五感が目覚める。五感を目覚めさせることで、生徒は『気づき』が増える。ゴミ拾いも上手になる。それは練習にもつながり、自分の欠点を発見することになる」
ビジネスでもスポーツでも、つまるところ感性の問題だったりすることが多いわけで。コーチングする側(先生だったり親だったり上司だったり)は、感性を育む環境づくりによほど配慮を払うべきだと思うわけです。
ツッコミ。
テレビやWeb上での人々のコメントを見ていると、ほとんどが「ツッコミ」です。
評論家、コメンテーター、ニュースに対する書き込み、、、。
実態を鋭く突くツッコミもあれば、ただ面白がるためや自らの知識を披露するために事実を歪曲したツッコミなど様々。
もちろん僕だって人からバカだと思われたくない。そういう気持ちの裏返しで人々はツッコむのかもしれません。
しかし、ふと広い視野で世の中を見たとき、結局得をしているのはツッコまれた側だということに気づきます。特にソーシャルメディアが発達したWebの世界では、いわゆる「口コミ」で話題が広がり、それが広告効果につながっているのです。もちろん、悪事へのツッコミはその分まったく逆ですが。
ツッコんでも得にはならない。むしろ人からツッコまれる側になろう。それがこれからの時代、本当の意味で賢い生き方かもしれません。
お笑いコンビでもそうでしょう? ボケ役のほうが頭よかったりする。
自信
ぶっちゃけ、自分の能力や実績に自信があるかと聞かれれば、胸を張って「Yes!」と答えられる自信は、ない。
とはいえ、思う。自分のことは嫌いじゃない、と。僕にだっていいところはたくさんあるのだと思う。
けれども、その自分の良さがこの1年発揮できたかと言えば、そうでもないような気もする。
のびのびとなんでも言えたらと思う。臆することなく行動できたらと思う。
これは僕個人の気質や性格の問題なのだろうな。
原点に戻ろう。仕事とは、
- 社会にどう貢献できるか。
- 自己実現を達成できるか。
- 大切なものを守れるか。
だ。きっと。そう思えば臆することはない。卑屈になる必要もない。まだ若いのだ(いやそうでもないけど)。小さな成功体験と反省を重ねるだけだ。いざ進め、おれ。
「一緒にやろう」と呼びかける怖さと快感
この1年はほとんど市広報の仕事をするのに精一杯。ですけど、後半は有り難いことにWeb制作の仕事もコンスタントに入ってきて、加えてイベント運営と慌ただしく過ぎてきました。
最近の口癖は「ひとりの限界を感じるっす。。」です。
ひとりでフットワーク軽く自由にやっていく時期から、そろそろ誰かと手を組んで、もしくは組織化してやっていく時期なのかなと感じるこの頃。
今年、やっていきたいのは大きく3つ。
- なななな南城プロジェクト
- 親子DE無形文化財
- コミュニティカフェ
名称だけで意味不明だとは思いますが、とりあえず、この3つをぜひやっていきたい。しかし、どれも1人じゃ無理なんす。
「一緒にやろう!」
そう呼びかけることは、それなりの勇気と、かなりの労力が必要。他人を巻き込むことの責任もついてくる。
みんなに知らん振りされたら最悪だし、「やろうやろう!」って盛り上がれば最高なんだろうな、と、うじうじ悩む日々。
疲れない社会
あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いいたします。
2010年となりました。ここ数日、テレビでは日本のこれまでとこれからを議論する番組がいくつか放送されていて、全体的に「だれが悪い」とかそういう話ばっかりですが(笑)、いろんな人たちの考え方を伺えると言うのは勉強になります。
どの番組でも話題に上っていたのが「若者」について。
留学したい人がいない
内向き
疲れている
下を向いている
起業精神がない
と、若者を交えずにおじさん・おばさんが言いたい放題でしたが、なんとなく間違っちゃあいないと感じる私も、もうおじさんでしょうか。でもまあ「今どきの若者」論はいつの時代でもあるもののような気はするっす。
若者が「疲れている」原因はいくつかあるのだと思いますが、僕なりに言うと「疲れたら休む」ことが大事だと思っていて。本当は疲れないように工夫して生きていくことが大切なのだけれども、実際疲れてるんだから仕方ない。元気の3原則は運動・栄養・休息です。
「そんな甘いことを言っていたら国力が低下し経済が低迷するではないか!」
そんな意見もごもっとも。ただ、本当に疲れている人は休んでもらうしかないっす。休んで活力が戻ってくるその時にどうフォローするかが大切。それまで元気な人が働く。それが持続可能な共生の社会ってもんだと思うんです。疲れた人の「休み方」だって十分市場になりうるし。
成長より持続。今はそんな時代ではないでしょうか。政府が発表する「成長戦略」も「持続可能戦略」って名前にでもすればいいのに。
南城市も年中いろんなイベントがあってにぎやかですが、市の職員の皆さんも大変です。お疲れさまです。そこで提案ですが、「南城市なにもしない旬間」を発表してはどうでしょうか。2週間くらいみんなで何もしない期間。南城市らしくて、その上話題性があると思うのですが。
では本年も疲れない程度に頑張っていきたいと思います。